【佐倉一里塚について】

佐倉一里塚は目的を達成するために佐倉新町の古民家を借り受け、「町並み情報館」とし活用しています。

 

佐倉新町は1610年に入封した土井利勝(江戸初期の老中・大老)が佐倉城とともに築城した城下町の中心地。往時は“佐倉新町江戸まさり”と謳われ、明治維新後も「連隊の町」として賑わいました。

そして、2010年からの「佐倉城築城・城下町400年」と新町電線地中化に向けて、町並み整備・修景・観光メインのまちづくりを始め、現在に至っております。

 

 

 

◆歴史的文化財としての古民家

「町並み情報館」は幕末に長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)や、会津藩の山本覚馬(同志社大学を創立した新島襄の妻八重の兄で、後京都府議会議員)が剣術の他流試合のために宿泊した旅籠「油屋」(郷宿)の跡地です。

佐倉藩が嘉永3(1850)年に、藩校成徳書院の演武場(現在の市立体育館)での他流試合を容認し、それに伴い全国諸藩から武芸者などが訪れ試合を行っています。武芸者は、旅籠「油屋」に宿泊が指定され、嘉永3年7月28日から明治3年10月6日までの20年間の宿帳が残っており、宿帳には約780名が記録されています。

 

 


◆旅籠「油屋」から、呉服商・今井商店(屋号:駿河屋)へ

 宿帳の存在から、明治3年までは旅籠だったことが分かりますが、呉服商・今井商店(初代店主:今井保造氏)の設立年度は不明です。明治25(1892)年に土蔵が築造されたことから、明治20年の初期には呉服商を始められたと思われます。今井商店は明治30年代の初めまで続いたようです。

 

(左)初代店主:今井保造氏

                

(中央)大正9年撮影の駿河屋

(右)駿河屋の暖簾



◆「町並み情報館」(古民家)の概要

①敷地

敷地は、間口12.4m(6間5尺)・奥行52.7m(29間)で、嘉永元(1848)年の「佐倉新町絵図」(新町全体の町割図で、家ごとに敷地の間口と奥行きが記されている)に描かれている地割寸法と同じで、約200坪の面積があります。

 

②主屋

平屋で、店舗部分と住居部分に分かれており、土蔵築造から考えて、主屋の築造は明治20年代初期と思われます。家族構成が小人数であったためか、小さく部屋割りされています。

   土間・店(11畳)、居間(6畳)、茶の間(4畳)、台所前室(3畳)、内玄関前   室(2畳)、座敷(6畳)、座敷隣室(3畳)、縁側、便所


③土蔵

築造は、明治25(1892)年9月15日(2階の梁に棟札が現存)。面積は1・2階ともそれぞれ6坪。屋根の形は切妻。蔵の基礎は伊豆の青石で、東面と西面の中央下部に換気窓があります。

2階は倉庫として利用されていたようで、2階の床には取り外し可能な格子状の床(畳1畳分)があり、天井の梁に固定されている鉄のフックに滑車付きのロープをかけて「反物」などを上げ下ろししていたと思われます。

 

土蔵(改築後)

④湯殿

湯殿の基礎廻りは御影石(幅1間、高さ1尺5寸、厚み4寸)が惜しげもなく使われています。湯殿入口の2枚引き戸のガラスには「合資会社 小野組銀行」の文字が薄っすらと読めます。

 ※「小野組」は江戸時代の豪商で、明治5年渋沢栄一の仲介により、三井組と共同で「三井小野組銀行」(第一国立銀行の前身)を設立。のちに三井組は独自に金融機関(三井銀行)を設立したが、小野組は金融政策の急変で明治7年に破産した。

 

奥行約53mの純和風庭園

巧みに配置された建物・石灯籠・古木など。

中庭には東屋(約30席)が設置されており休憩・飲食に自由に利用できます。復元したつるべ井戸(深さ22m)では水汲み体験ができます。

 

明治25年築造の土蔵は一部補修して展示室・ギャラリーや「城下町きもの散歩」での着付け場所として活用されています。